志氐(しで)神社とは以下。
- およそ垂仁天皇の御代の鎮座とされ、古くは高野御前(たかのみまえ)と称されていた。皇大神宮の御鎮座である垂仁26年(☆紀元前4年 or 357年頃?)より前とみられている。
- 天武天皇が皇子の時、壬申の乱を避けて吉野から鈴鹿を経て桑名の頓宮への途次、迹太(とほ)川のほとりで伊勢の皇大神宮を遥拝。その際「シデ」(御幣)を垂らして禊祓いをされたことにより、この地に「志氐」の名が起こり社名となった。皇子がお祓いをされた岡が御祓岡(岡山)、天照大神を望拝された山が額摘山(ぬかつかやま、糠塚山)であり、望拝の時に献じる米を迹太川で洗ったので以後これを米洗川(よないがわ)と称するとされている。
- 延長5年(927年)にまとめられた、延喜式神名帳に記載される延喜式内社にあげられる。
- 明治維新までは羽津村、吉沢村、別名村、八幡村、鵤村の総社とされ、明治6年に郷社、明治39年には神饌幣帛料供進社と定められ。
- 明治40年後各字の神社を合祀することとなり、白須賀の神明社と住吉社、八幡の八幡神社、別名の長谷神社と荒神社、各字の山之神、その他の祭神が合祀され。
- 四日市市羽津地区を中心に、北勢地方を中心に崇敬されている神社。
- 神紋は十六弁菊。
※壬申の乱当時、伊勢神宮の主神は天照大神ではなく、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)であったとする説あり。
志氐神社古墳とは以下。
- 古墳時代前期(3~4世紀)に築造された北勢随一の前方後円墳。
- 培塚は7基あったと伝えられてるが、現在は1基残すのみ。
- 社務所建築等により前方部は取り壊されているが、椎の古樹が前端部にあたるとされている。
- 1852年後円部の墳頂は発掘され、内行花文鏡、ヒスイ勾玉、淡碧玉製管玉、空色硝子小玉、車輪石などが出土。古墳の規模、出土品等からこの地の高貴な方の墳墓とみられ、一説には額田連(ぬかたのむらじ)の祖・意富伊賀都命(おういがつのみこと)の陵墓ともいわれている。
※意富伊賀都命は鍛冶の神。父神である天之御影神(あめのみかげのかみ)は、近江国の三上山(近江富士)に降臨したとされる鍛冶の神。
万葉集「巻第六 一〇三一番」
「後爾之 人乎思久 四泥能埼 木綿取之泥而 将徃跡其念」(丹比家主真人)
後(おく)れにし 人(ひと)をしのはく 志氐(しで)の崎(さき)
木綿(ゆふ)取(と)りしでて さきくとそおもう
『万葉集』では丹比屋主と記されるが、関東行幸従駕の際に詠んだ和歌の中にある「四泥の崎」(伊勢国朝明郡)が河口頓宮(伊勢国一志郡の関宮)より先の行程であることから、和歌の作者を多治比家主に比定する説もある。
四泥(しで)の御神木
樹齢推定五百年と伝えられる四泥能埼の霊木・スダジイの木(椎の木)。
意富伊賀都命の陵墓とされる前方後円墳の前方部の位置に自生している。
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志氐と四泥の説があるが・・・。





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